ひでリウム・瑠璃色のサンクチュアリ

あらゆる自分を整える、魂の請願を叶える、体の声を聴く、自分の人生を創造する。

福生病院透析中止の報道で思うこと。

福生病院の透析中止の件で思うことを書いてます。


患者から透析中止の希望があり、その数日後やはり透析を受けたいと申し出があったが透析をすることなく亡くなったという内容です。
中止の希望から約1週間の期間に起きた出来事。

 

headlines.yahoo.co.jp


テレビ報道や某新聞の記事では、当該医師に落ち度のある印象を与える内容と感じてます。

「透析中止によって“奪われた”命」とかね…


私は、医療と患者とが分断し、どちらが良い悪いで争うのは違うと思う。
人の生死に関わることであり、医療従事者も患者も同じ人間であり、良い悪いとか正しさでは答えが出ないし人の数だけ答えのようなものがある、というものだからです。

 


私が透析室で仕事していた時は、透析は1度始めたらやめてはいけないもの、というものでした。透析医学会のスタンスは特殊な例を除いては何があっても透析を続ける(やめてはいけない)というものです。


透析は苦痛が大きくてもう止めたい、生きててもしょうがない、という患者さんは多かったし、止めると言って透析に来なくなる人もいました。


来なくなった人には、病院から医師や看護師がなんども本人や家族に電話をかけたり自宅へ出向いたりして説得してました。


結局、尿毒症の苦しみに耐えられなくて救急車で来院して透析をする、という人もいました。


尿毒症の苦しみは本当に厳しく大変なものだと患者さんたちは話してました。


透析も苦しく辛いけど、尿毒症は透析よりさらに辛いから透析をやらざるを得ないんだ、とか、
透析やらなきゃ死ぬんだから、もう今だって死んでるも同じだ、という患者さんもいました。


透析をしなくては生きていけない、透析治療中も血圧低下や嘔吐といったさまざまな身体苦痛があって命を落としかけることもある、
透析患者さんは皆、常に死と隣り合わせというのがありありと私には見えました。


だから、本当は治療ではなく延命であるし、終末期と言えるのではないでしょうか。

 


腎不全で透析を行っても、腎臓が治ることはありません。あくまでも透析は腎臓の機能の一部を担うだけなのです。


話が広がってしまいましたが、話戻って報道されている亡くなられた女性患者さんが「やっぱり透析を受けたい」というのは、すごく当然な意見だなと思うのです。本当に苦しかったと思います。


女性患者さんの再透析がなぜされなかったのかといえば、同意書の件もありますが、もしかしたら、血液データを見て、もう今から透析をしても余命いくばくもない、と医師は判断したかもしれない。


そして女性患者さんがもともと透析中止希望してなくて、ある日急に状態悪化して病院に運ばれてきたら、たとえシャントが潰れて普通に透析ができなかったとしても、他の手段で緊急透析は行われていたかもしれない。


本当にこれは想像ですけども、医療従事者で過去に透析室で仕事をしていた私はそんな風に感じたのでありました。

 


こういうことを書くと、とくに命に関する「決断」というのは恐ろしいものと感じる人が多いかもしれません。


でも、自分の体、自分の人生です。


自分が決めなかったら、だれが決めるのでしょうか?だれかに自分の命の期限を決めて欲しいですか?


ただ、自分1人だけで決めなくてもいいのです。家族や友人や医療従事者、色々な人と話し、さまざまな情報や日常の出来事といったものから選択すること。


今回のような医療関係の報道でいつも問題になるのは、日本における「尊厳死」「死生観の乏しさ」「病院に依存」「死へのタブー視」あたりかな。

 


やっぱりこういう話題はまとまりつかない!


でも書いていきたいのです。こうした報道に感じ考えたことをアウトプットすることで、多くの人に「自分で自分を育てること、より良い人生を選ぶこと」を広めたいので!

 


ではまたねー。